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アナポリス(Annapolis)は、アメリカ合衆国メリーランド州中央部に位置する都市。同州の州都である。人口は35,838人(2000年国勢調査)。2004年の推計では36,217人で、わずかに増加している。面積は19.7平方km。同市はシバーン川(Severn River)がチェサピーク湾に注ぎ込む河口に位置している。ボルチモア・ワシントン大都市圏をなす都市のひとつで、ボルチモアの南、ワシントンD.C.の東それぞれ約45kmに位置する。 アナポリスは海軍兵学校の町として知られる。海軍兵学校を指して「アナポリス」と言うこともある。2006年に公開されたジャスティン・リン監督、ジェームズ・フランコ主演の映画『アナポリス 青春の誓い』は、この町の海軍兵学校が舞台となった。 また、アナポリスは''America's Sailing Capital''(アメリカのセーリングの都)と呼ばれ、ヨットのメッカとしても知られている。ダウンタウンの南を流れ、チェサピーク湾に注ぐスパ・クリーク(Spa Creek)の河岸には大規模なマリーナがある。 == 歴史 == バージニア植民地を追放された清教徒たちによってシバーン川の北岸にプロビデンスという名の入植地がつくられたのは1649年のことである。清教徒を率いたのはウィリアム・ストーン(William Stone)であった。やがて入植者たちは南岸の、より防護の堅い港のそばに入植地を移し、プロクターズの町、シバーンの町、アン・アランデルの町を次々に建設した。アン・アランデルはその直後に死去したボルチモア卿(Lord Baltimore)の夫人にちなんで名付けられた町であった。この頃、町は奴隷貿易で栄えた。1694年にはカトリック政府が倒れ、フランシス・ニコルソン総督がこの町を植民地の首都とし、アン王女にちなんで町の名が現在のアナポリスに改められた。しかしアナポリスが正式な市になったのは1708年のことであった。 18世紀中盤から独立戦争開戦までにかけては、アナポリスはその裕福で、洗練された社会で知られた。重要度の高い週刊誌となったメリーランド・ガゼット(Maryland Gazette)が、1745年にジョナス・グリーン(Jonas Green)が創刊したものであった。1769年には劇場が開場した。この頃までは、アナポリスでは商業も栄えていた。しかし1780年にボルチモアが入植港になると、アナポリスの港町としての地位が急速に低下し、市の主産業はカキ加工のみとなってしまった。現在のアナポリスではこの時代からの水産業に代わって、ヨットやクルーザーといった娯楽用の船舶が多く見られる。 1783年にパリ条約が締結され、独立戦争が終わると、アナポリスはアメリカ合衆国独立後最初の首都になった。アメリカ合衆国議会は同年11月26日から翌1784年6月3日までアナポリスで開かれた。1783年12月23日、ジョージ・ワシントンが植民地軍司令官を辞職したのもこのアナポリスであった。その後、首都はニュージャージー州のトレントン(現ニュージャージー州都)に移った。 1786年9月、連合規約下でそれぞれ独立した主権を有していた諸州が州間通商上の障壁を取り払うべく、アナポリス会議が開かれた。しかし、参加したのはニューヨーク、ペンシルベニア、バージニア、ニュージャージー、デラウェアの5州だけであった。4日間に渡って会議が行なわれたが、結局ここでは成果が上がらず、議題はフィラデルフィアでの再会議に持ち越された。アメリカ合衆国憲法はフィラデルフィアでの再会議よりも前に制定されていた。1808年、議会は奴隷の輸入を禁止し、アナポリスを長きにわたって支えてきた奴隷貿易に終止符が打たれた。 南北戦争中、アナポリスにはペイロール・キャンプ(Parole Camp)が置かれた。戦争が長引くにつれて、キャンプは市の外側にも広がっていった。キャンプのあった地域は、現在でもペイロールと呼ばれている。また、アナポリスには大規模な病院も置かれ、北軍・南軍捕虜を問わず、負傷兵の治療にあたっていた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アナポリス (メリーランド州)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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